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ゴチャついてる?人気のある日記ブログの文章を考えてみた

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20180305200856

最近、人気ブログについて考えてみることが多い。

もちろん、ブログといっても色々なジャンルが存在する。

その中で、最も代表的なのは日記ブログに違いない。

ではでは、どういう日記が人気なのか探ってみると、

3つのヒント+αを得られた。

  • 手当たり次第に、話したいことを話す(文脈とかはあまり気にしなくて良い)

  • 比喩/詳細表現を多く(ここに目に見えて個性が宿ってる)

  • パッと見の文字数を多く詰める(総文字数が多すぎると疲れるのでダメ、最大2500字程度だろうか)

+αは余談。それらの人気ブログの開設当時はいずれも人気がなく、人気が出た現在であっても過去にさかのぼって読んでいる人は少ないようだった。

新旧の文章を見比べてみると、本質的な部分は同じでありながら、表面的な部分では熟練度が上がって、より読みやすく、それでいて表現の濃い文章に仕上がっていた。

ということで、読者人気を得るには、本質的な部分よりも、表面的な部分に着目した方が、より一層読者は楽しめるのではないかと考えた。

さてさて、これら3つのヒントを可能な限り実行してみた文章を書いてみる。


「一言が何言(なんこと)にも」

これらのささやかな3つの技術的ヒントを淡々と並べ見せられて、ついセピア色の過去にトラベルしたかのように思い出されてしまうのは、僕の150年以上の歴史があるであろう小学校に座する北側校舎3階端、これまた歴史的な趣きのある図書館で受付台横に貼り付け紹介されていたド定番のワラ半紙1枚による1ページ。

通常、貼り紙は上質紙のはずだが…この場合には灰色で汚目なワラ半紙に書かれていたのはピッタリ正解だろうと思う。そこにはゴシック体の文字が小さく紙いっぱいに書き連なれていたために、もしキレイな白紙に濃い黒文字を並べようものなら、小学生の潤目にはやたらドギツイコントラストをした警告文がナイフのように目に刺さり、それを読んではいけない、と避けていたに違いない。大人になれば目は乾き、むしろ興味がソソられ井戸端会議開催ものだろうけど。もちろん、変幻自在のカメレオンのごとく周囲に溶け込みすぎては誰も読まない、というか読めないが。(メタるけど”書き連なれ”って言葉読み難いね)

その1ページが小さな世界に発信したい肝の心の内容は、次の一言に尽きた。 「扉が目の前にある」 たったそれだけで済むことを、記憶からスッと消えたその著名らしい創造たる作者は、800文字を超える勢いでドロドロガシガシと脳みそをタレ流すように書いていた。ネットスラング界では一種のグロと呼ばれてしまいそうなそれがあえて紹介されているということは、何か伝えたいことがあるのか、布教したいのか、単にそれだけ珍しいことだと言いたいだけか。たしかにあれから数十倍以上の読書量になった今でも見かけたことが無いぐらい珍しい文章ではある。

扉の大きさやそこまでの距離感、形状や年代的な見た目や漂う匂いは当たり前に書かれ、加えて扉の角にあるホコリの色や量やそれに絡まったちっさい黒い虫の足数とその天敵について、見えない歓迎者(ようは幽霊)の存在や建築当時のおやっさんの気持ちまで推し量る。ときにはパンクブーブーのようなフェイクも挟まれる。たとえば”俺は助けを求めて人を探した。すると、すっげぇ強そうな…酒を飲んでる爺さんを見つけたんだ。”というようなネタがあったと思うが、思わず、あぁ強いのは酒ね?喧嘩的な強い爺さんじゃないのね?と自分の先入観を恥じつつ騙されかけたことに対して突っ込んでしまう面白さのあるアレだ。とはいえ一般的な小説に、文字上ではどこか浮いた感じがしてしまう野暮なツッコミ役は基本いないのでそういうネタは埋もれやすく、気付かなければそれでオシマイになってしまうが。飽きずに読み返したときに気付けたらそれはそれでスルメ的に面白美味しい。

そんな装飾モリモリで”24色色鉛筆でグリグリと髪幅5倍ぐらいの太さの線で紙いっぱいに走らせただけの絵がなんと数億円で売れたような気分”にさせるソレを純粋無垢な小学生相手に紹介してしまった変態教員は間違いなくロリコン野郎であろう。そう、子供たちを愛するゆえに、普通ではないアブノーマルで危険な文章を見える形で公開してしまったのだから。 実際、それをまりもっこりのような目で見てしまった僕は「なんかすげぇ」と不用意に淫らな気持ちにさせられていたと思われ、貼り主には公然わいせつ罪が適応されるのではないかと考えられるが、この紙を見られるのは決して不特定多数ではなく、ほぼ在校する小学生のみかつ構内施設の中でも遠く離れた図書館に来、その上貼り紙といえば”お勉学に関する悪意”でしかないことを十分に理解しているにも関わらず、それをあえてカロリーを消費しながら読んでしまう稀有な子となると、たとえマンモス校であってもエスプレッソ製法のごとく量は絞られ、上限で3人しか見ないだろうと考えられるので適応はブラックに難しいかもしれない。

あぁ、なぜそんなキラリと冴える文章が貼られていたか?このただのわいせつ物…いや文章に実は「あまりオススメしない文章法」と銘打たれていたといえば良いだろうか。やはりお勉学的な悪意があったわけだが、もちろん”好きな人は好きでハマる”とアブノーマル宣言も書かれており、夢見る小学生の僕にはこれが”好きって思える子は人間界でも特別で…まるで天才超能力者のような偉大なる存在なんだよ”と教えるとともに中二思考回路を活性化、変態を許容させられる脳構造へと変質させられた。今思えば、カリギュラ効果っていう超格好いい支配的ネーミングの心理的効果を巧みに駆使されていた訳だ。

話をざっくりまとめていくと、これら3つのヒントを活用したような目薬必須の文章というのは古くから存在しているものの、非常に変態的で明確に万人受けはしない(だからといって屈せず、かつてのアップル社のようにユーザーを見事な変態に育て上げ、自身を神のごとく信仰させ奉りあげさせ、万人そのものを作り変えていくというスタイルもある)。しかし、ネットの闇に潜む日記ブログを探し当て読む好奇心強めな層には紹介で言われたように"好きな人は好き"の”好きな人(=変態)”が多いようでこの手のハードグミな文章が好まれていることがよく分かっている。論理的にいえば、ロリコンな変態のために変態な文を変態が書くことで、世界の公然が守られ発展していくという感じか。

もし、この”一言が何言にもなっていく”変態的無秩序文章を少しでも面白く感じれたなら、

「ようこそアブノーマルな世界へ」


こうして僕が装飾文章を推奨する一方で、

極限まで装飾を削った文章は風化しにくく、万人ウケに最も近い文章だとよく言われていることを知っておきたい。

が、僕的にそういう文章は万人に嫌われないだけで、好まれているわけではないと感じている。

僕自身、シンプルな文章が好きだけれど、常に物足りない気持ちにもさせられている。ネット検索してみた様子では、そういう風に感じている人は他にも多そうである。

情報が最低限の文章は、最も伝えたい部分を正確に迅速に伝え、それでいて人の想像する余地を残してくれる…かもしれないけれど、

他人の世界(視点)を見たくて、他人の文章を見ているはずの人にとって、

イチイチ自分の世界を辞書の様に持ち出しながら、解釈が合ってるかどうか分からないまま、自分風他人世界の話を進めていく手間は面倒で無駄なことこの上ないはず。

もちろん、漫画や小説の後半場面で十分に感情移入できている状態が完成していれば、シンプルに表現された文章であっても問題はなく。むしろ、没入感が高まる効果を期待できるが。

たとえば、情報を付け足すと、どう感じ方が変わるのか。

美人友達に声を掛けられる話として、

「おはよう」と彼女。

よりも「おはよう、いい天気だね!」と彼女は笑顔で声を掛けてきた。

の方が僕としては充実感があるし、さらに

「あ!おはよう、今日は近年稀に見る快晴日和だね!」と彼女は爽やかな笑顔で、ジェット機さながらに言い放つ。

の方が、面白味も増す。

3つ目の雰囲気のつもりで1つ目を書かれても、読者には一切伝わらない。ただ”彼女が挨拶をした”という最も大事な事実だけが共通していて、それだけが伝わるわけだけど。

これだけじゃ物足りないよね?

それでもシンプル好き?


ゼンリ)情報の多さは人生を豊かにしてくれますの

アクリ)何言ってんだ、好きな奴が何やってても好きなまんまだろ?言葉数が多かろうが少なかろうがよ?

モーリ)俺はもっと熱い暑い厚い文章が好きだ!

リリー)長文はそっ閉じ

アクリー、わしなら好きな子のことなんでも知りたいで。
だから、言葉数っちゅーか口数っちゅーか多いほうがええわな。